春の風の強い一日、東京は
青い空のもとに桜の花が舞い散っていく今日でした。

桜というのは、つくづくと不思議な花です。

この季節、花の仕事に従事する自分には
ウエディングはもちろん卒業や送別やいろいろなイベントで
トップシーズンのひとつ、
てんてこまいの毎日で
ゆっくりと花を見る機会がなく、
その桜の咲く数日が過ぎていくのが毎年のこと。

その忙しさにもかかわらず
また、たった数日にもかかわらず
けれどその咲いている間は
なんだか浮き足立つような、地に足がちゃんと着いていないような
心の騒ぐような、一日が、ただ続きます。

3分咲いたといっては人に伝え、
5分咲いたといっては息をつめて開くのを待ち、
満開になった今日は、あと数日、と指折り数えて
その数日が惜しく、またいとおしいようで
心がざわざわとして鳴り止まない、そんな気がします。

桜の花をうたった歌はいくつもありますが、
以前このブログ記事でも掲載しましたけれど
今、今日という一日はこの歌を何度も思い出させられました。

いかでわれ此世の外の思ひ出に風をいとはで花をながめむ
                                
                                 西行

参照サイトはこちらへ 
「山家集の研究」
http://sanka05.web.infoseek.co.jp/waka04.html

此の世のほか、つまり「此の世でない世界:あの世」への思い出に
願うこと、その切実な思いは、たったひとつ。
花を静かに、ざわざわした心ではなく
物狂おしい想いではなく、ただその花、桜の美しさだけを
ひたすら眺めることができること。
(自己流の解釈でいい加減です、いつものことですが)

(さらに、ついでにつられて思い出す歌、

あらざらんこの世のほかの思ひでに今ひとたびの逢ふこともがな

和泉式部の歌で、すっごく乱暴に要約すると
病気のころ、此の世のほかであるあの世への思い出に
もう一度ひとめ会うことができたら、という歌。
解説はこちらのHP「やまとうた」へ

確か田辺聖子さんの百人一首の本だったと思いますが
「此の世のほか、という言い回しが和泉式部ならではの独特の表現で、
まさに吸う息吐く息が歌になるという、天性の歌人であった」というような
解説があったように思います。
手元にその本がなくうろ覚えで恐縮ですが。
死ぬ前に思うほどの、切実な願いは、何か?
そう考えると、和泉式部も西行もその切実さを思わされて
またひとつ深く心に響くような気がします。)

花というのは、限りがあって
必ず終わっていくものです。
でも、そうでないものは、実はこの世の中には何もない、
その単純な事実を、手のひらに乗せて差し出される。

桜を見るこの数日、
たった数日のあいだに凝縮する一生を思う今日、
4月になったことに気づいて毎度ながら、やや愕然・・・

確かにブログを見ると一日一日なんやかやあるものの、
こういう年のとり方でいいんだろうか、と
じっと手を見る今日このごろでした。