写真はバラの「ビアンカキャンディ」。
昨日の新婦様の、その会場装花です。
バラの花の、その完璧さ加減を思わされます。

F・フォーサイスの「帝王」、
さえない中年銀行員が、南の島でゲームフィッシングをする短編小説。
そのフィッシング船の老人船長が、遠くに何かを見つける場面があります。

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「向こうに何かいるといってます。何かが船を尾行ているんです」
ヒギンズは、荒れる海面をじっと見まわした。水以外に何も見えなかった。
「どうしてわかるのかな?」
キリアンは肩をすくめた。
「あなたなら数字の列を見て、何か変だと感じるときがあるでしょう。」

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一会をはじめたばかりのころ、
それまで、必死に自分なりに勉強してきたつもりなのに、
実は何もかもが解らないことだらけである、
という事実に、あらためて直面する毎日でした。

この花は、生けこみに持っていったら一週間もつだろうか?
この花は、ワイヤリングをしたら3時間もつだろうか?
この花は、切るだけで水があがるだろうか?
ブーケのスポンジにさしても大丈夫だろうか。
水曜日に仕入れても、平気だろうか。

ひとつの疑問にあたるたびに、せっぱつまっていました。

あるときは市場で同業の花屋さんに必死に教えを請い、
あるときは先輩に電話をかけてまでも教えてもらい、
しかしそうしてかえってくる回答の多くは、たったひとこと。

           「・・・ものによる。」

ばっさり。

すべての疑念を一刀両断する魔法の言葉。
それが、「ものによる」。

今、しかしなんとかこうしてまだこの世界で食べている今、
やはりそうとしか答えられないことが山ほどあることに
やっと気づきます。

同じ品種、同じ産地、同じくらいの価格、同じ仲卸さんで買う
同じバラ。
いつもと同じように水揚げ処理をして、いつもと同じようにケアをして、
それでもなぜか、
「あれ?」と思うときがあります。

それは何が原因かはっきりわかりません。
輸送かもしれないし、保管かもしれないし、
天気かもしれないし、一会の環境の変化かもしれない。

しかし、「ものによる」のだ。
たとえブーケのために仕入れたバラを
まるまる諦めることになっても、ダメなときはダメです。

見た目は普通なんだけど、
「オレたち、明日にはダメになるぜ?」と
こいつら全員言ってやがる。
そんなときがあるのです。

それは、生きている花を扱う生業である以上、
なんというかもう、仕方のないこと、のような気がします。
もちろん経験を重ねたらきっと減っていくことだとは思います。
しかし完全にゼロにはならないような。

たぶんそれはこの些少な日常と同じで、
善か悪かは即答できない、はっきりしない、
わりきれない、どうしようもない、
そんなことは、いつも何かしら必ずあって、
語られる御伽噺のように、
よいものと悪いものがいつも明確にわかるなんてことのほうが、
本当はありえないのかもしれません。
だから、それが「生きている花」なのかもしれません。
生きている花の魅力なのかもしれません。

台風の中ぼんやりと考えてたことでした。

では皆様、今日もお疲れ様でした。