ロシアの、エルミタージュ美術館を出てすぐ。

屋台が出ていてとても美味しそうで
でもこんな寒い中に並べている食材は
凍らないのか、とか
絵や写真でしか見たことがない
毛皮のコートや毛皮の帽子に
それは確かにこの寒さだったら毛皮がいる、
と妙に納得したりとか、
その湯気が出ているソーセージが食べたくて
でもこうして写真を撮っていたら
あっというまに人が増えて行列になってきて、
この中で並んで待つのはとてもできないと
音をあげてあきらめたけど
そのとき食べられなかったソーセージの味は
どんなだっただろう、と
今も思います。
きっと思い出すたびにそう思うだろうと思う。

私には、ずっと北欧のデザインというものがいまひとつ
わからなくて、それはつまり何がいいのか?という
ことがわからなくて、
分からないことを削りだしたくて、
北欧に行ったのでした。
「これは、好きではない」ということが
やっとそこで分かるなら、
一方で自分の「好き」がより分かる気がしたので。

何かを「好きでいる」という
その反対の一方に「嫌いである」ということを
含んでいればより信じられる。

対極に、同量かそれ以上の分銅の
嫌いである、という重さがなければ、
そして同時に10倍か100倍の
「どちらでもない」とか「興味がない」を
伴ってはじめて「好きである」、が
成立すると思うのです。

ほがらかであるためには悲しいときには
悲しむだけ悲しむことも必要ではないか、と言う
中原中也を、そうだ、と思います。

私は寒いとこが好きだし、冬も好きだ、と
思った日でした。

ではみなさま今日もお疲れ様でした。