今日アシスタントさんが当面の目標として
「ブートニアを上手に作れるようになること」と言います。

ブートニアとは、花嫁のもつブーケに対して必ず対となる
花婿の胸にさす小さなコサージュ。

小さいコサージュだから簡単かというとそうでもなく
ブーケの持っているいろんな要素を、本質をとりだして
手のひらにまとめる花。
その意味で、ブーケよりもずっと難しいと言えます。
「本質をつかむ」ことを要求されます。

「せんせはそれ、どんな勉強をしたんですか?」と問われて
あらためて数えると、
いろいろあるけどひとつはこの和花の手習いです。

貝母百合の、このくるりんとした葉、渋いけど軽みのある緑、
ちょっととぼけた形とか
持っている要素をよくよく見て、活け替えること。

しかし10年目にしてやっとわかることばかりです。
10年、毎月真面目に続けてたら、そら少しはましになりますよ。

でも10年もひとつのことをやるなんて
考えただけで、気が遠くなるとか
10年真面目にやったからって
うまくなれるとは限らないとか、
それは○○さんだからなれるんだろうけど、とか、
そんないろんな理由でやらないことも多いので
やってる場合には目立つだけです。たぶん。

一会のレッスンの生徒さんも
何年も続けている人がたくさんいます。
みんなまじめだなあ、よく飽きないなあと
講師としてあるまじき感想を結構
素で思ったりするんですが、
毎日毎日、砂を水で洗ってたら、
ふとある日、小さな砂金として
結晶する。

それをみな、そうと知っているのかもしれません。
愚鈍な自分よりずっと賢くて、
それがわかっていて取り組んでいるんじゃないかと。
自分は最初はわかりませんでした。
長年やってれば、感覚がこうして磨かれるというあてもなくて
ただ、やれることをやって少しでもいいから
上達して、お客様に喜ばれるように、なりたかった。

感覚を磨く、という大げさなことではなく、
自分のような凡人にとっては、
砂金があるかないかもわからないけど
毎日毎日、腰まで水につかって、砂を洗うことです。
途中で休んだら感覚はすぐ鈍る。

あくまで真面目に王道を行く。
それが遠回りのようにみえて結局は
一番の近道なんじゃと今はようやっと思います。

とかなんとか毎回重たい面倒なことを書いておりますが、
仕事ではない自由な花を活けるときは
いつも、なんというか、ひょうけた花、
ひょうきんな軽みのある花を活けたい。

と、地で思ってるらしいところが、我ながら不思議です。
ありのままの自分と、
目指したいこうありたい姿は割と違う。

そういうのもひっくるめて、今日という日の花。

カルペディエム、今日という花を摘みとれ
という適当なオチをつけつつ、
お茶を濁して(超得意)

では皆様今日もお疲れ様でした。